【のんのんびより】「遊びにきたよー!」から見える人間と暮らし - その②

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『のんのんびより』の魅力として、前回の記事では、「田舎という舞台の描写がいかに丁寧か」ということを記しました。第2回となる今回は、「人々の暮らし描写がいかに丁寧であるか」ということについて語っていきたいと思います!

日常系作品と呼ばれるアニメは、日々の生活のなかで起こった些細なできごとが描かれていることが多いですが、本作ではさらに、集まって遊ぶ場所もないように思える田舎という舞台で何気なくおこなわれている営みがそのまま遊びとなっていることや、日常生活の中で本当に何もないと思えてしまいそうな、ゆったりとした時間を丁寧に表現しています。

目次


ゆったりとしたコミュニケーション

会話のテンポ。

れんげたちの暮らす場所は、人口密度がとても低く、限られた人同士でしか関わる機会がありません。すると、競争したり焦ったりする必要がないからなのでしょうか。各々が、スローでマイペースに振舞います。結果として、彼女たちの会話には、ゆったりとした間(ま)が取られているのです。

実際、れんげや一穂は元々のんびりとした喋りかたですし、せっかちそうな小鞠でさえ、恐怖に怯えているとき以外は、基本的にゆったりと喋ります。

たしかに、夏海はれんげの独特な発言に ”ノって” 見せることもあります。たとえば、れんげがグチャグチャに絡まったあやとりを “宇宙” と言い張ったときには、「すっげぇー!宇宙だァ〜!」と食いついてみせましたが、最後には、れんげの感性について行けず「それ宇宙じゃないよ」と諭しました。夏海のゆるやかなノリツッコミが行われましたが、れんげもまた「ねじれてるから宇宙じゃないのん?」と、マイペースな発言を崩しませんでした。

お互いに会話の順を飛ばすようなことはなく、遮るようなこともありません。むしろ、誰かが放った言葉にツッコミを入れることは稀有で、誰かがズレた発言をしても、黙ったままでいることさえあります。

張り合わないこと

夏海と小鞠は1つ違いの同性ということもあってか、意地を張り合うような場面が見受けられることもありますが、基本的に、彼女たちが見栄を張り合うような描写は多くありません。たまたま、穏やかな性格の子たちだったと考えることもできますが、たくさんの人間がいる都心部とは違い、わざわざ順位をつけるまでもなく、各人の性質の差が如実にわかってしまいますから、張合う意味もありません。

たとえば、学校でテスト返却が行われたとき。生徒たちは全員が異なる学年ですから、点数の比べようがありません。あるいは、そういったシーンはありませんが、体育などの実技科目においても、全員の学年が異なるため、運動能力が比べられるようなことも少ないのかもしれません。

人の少ない田舎においては、まったくないとは言い切れないものの、競争心とは無縁でいられる機会が多いのではないでしょうか。唯一、小鞠だけは “大人” として振舞おうと努力していますが、14歳という年齢にくわえ、このみや夏海とのやりとりにおいて小鞠が放った「思春期だよ!」というセリフから、たまたま多感な時期の心の動きが見受けられていだけと考えられそうです。

自然なセリフ

暮らしというのは、家族や近隣の親しい人たちで協力して営むことにより、その共同体のなかでのみ通用する言語が生まれることがあります。それは特徴的な呼称や、ちょっとした会話のやり取りから見受けられるものです。

11話、村に雪が積もったことで、れんげたちは大人を連れて雪遊びにいそしみます。高台から斜面を滑りおりたかと思えば、今度はかまくら作りに熱中しています。ふだん遊ぶ場所は、田舎という土地柄により限られています。ましてや、冬ともなれば寒くて外遊びをする機会も減るでしょうから、雪が積もったということは、珍しくエキサイティングな遊びをするためのチャンスです。幼いころに雪があまり降らない地域に住んでいた人であれば、雪が積もったときのワクワクを体感したことがあるかもしれません。

子どもたちが雪遊びをしている間に、一穂と駄菓子屋、高校生組は豚汁を作っています。雪が積もっただけでひとつのイベントのように寄り合って遊べるというのは、それだけ近所の結びつきが強いかということを表しています

さて、鎌倉を作ったれんげたち。中に調理機材を持ち込んで、お餅を焼くことにしました。れんげが箸でお餅を触っていると、夏海がふと投げかけます。

「れんちょん、おもちひっくり返す役〜?」

小さい子が何かをしているときに、何をやっていのるか問いかけてみるというのは、日常のひとコマらしい場面です。そしてここでは、さらに一歩踏み込んだ様子が描かれていました。共同体のなかで、子どもにもちょっとした役割を与えるというのは、暮らしという営みにおいて発生する、なかなか具体的な振舞いではないでしょうか。このセリフを、特に明確に使っているのではなく、夏海がさらっと放つところが、より日常の些細さを強めています。

あるいは、れんげが補助輪付きの自転車を買ってもらったとき。れんげたち4人は駄菓子屋に向かいます。すると、れんげの補助輪つき自転車を見た夏海が「なんかこの音なつかしいなぁ」と口にします。誰かに向けられた言葉ではなく、ただこぼれた感想なのでしょう。夏海の発言は、これといって何も展開しませんでした。

それは、日常においてごくふつうのことで、何人かでいるときにぽろっとこぼした言葉は、必ずしも会話の糸口となるとは限りません。物語の展開というものを考えるならば、ちょっとした発言であっても伏線として機能していたり、作中において何かしらの意味を持っていることがあります。しかし、本作は彼女たちが田舎で暮らしていく様子そのものが主題となっているために、このように、物語の展開に必要な ”意味” を持っていないセリフが登場してくるのです

方言と小鞠

また、6話にも自然なセリフが登場しています。

れんげたちは神社で肝試しをすることになりました。怖がりな小鞠は肝試しを嫌がっていましたが、オバケ役になったことで、意気揚々と準備をはじめます。小鞠がひとりでオバケの準備をしていると、後ろに気配を感じました。しかし、振り返ると誰もいません。脅かされる側ではなく脅かす側になったとはいえ、夜の神社でひとり、恐怖におぼれた小鞠は「誰もいないし、なんなのん〜〜〜〜!」と声をあげます。

ふだん、小鞠の口から訛りを聞くことはありません。れんげや一穂、夏海は「ウチ(「シェフ」のイントネーション)」という第一人称や、「のん」といった語尾を日頃から口にしていますが、小鞠の口からは、それらの言葉が聞こえてきません。

お姉さんとして振舞いたいからなのか、あるいは田舎っぽさを出したくないのか、標準語で話すことが多いのです。ところが、恐怖という反射的なリアクションを取るときに、つい方言が出てしまいました。あげく、訛りの強いれんげのような口調で「うち、わかってるん」とまでこぼしています。

この場面がなければ、小鞠がこれまで標準語で話していたということに気がつかなかった視聴者も多いのではないでしょうか。それだけ、小鞠の標準語は自然です。周囲には平然と訛ったまま喋っている人たちしかいないこの土地ですから、もしかしたら小鞠は努力しているのかもしれませんね。

ところが、こうしてポロッと訛りが出てしまうことで、かえって「大人ぶろうとしていた小鞠」という側面が浮き出てしまいました。方言あるあるのようなエピソードですが、現実に起こりそうな、生活感のあるシーンでした。

約束のしかた

何気ない所作は、生活の様々なところに表れます。たとえば、れんげたちは携帯を持ち合わせていないため、遊ぶときは基本的に口約束になります。夜にまた会う約束をする際は「夕ごはん食べたらね〜」と言っていますし、週末の待ち合わせは、学校帰りのバスで交わしていました。

現代の子どもたちは、田舎であろうと各人がスマホを持っていれば、LINEなどのテキストでやりとりが行われているでしょう。しかし、通信手段を持たない彼女たちは非常にアナログな世界に住んでおり、よくて固定電話で、基本的には口頭でコミュニケーションをしていくほかないのです。すると、そこで交わされる言葉は、スマホや携帯電話を日常使いしている都市部の人間とは違った形になるのです。

「明日秘密基地に行くね〜」という約束は、小さい頃、似たような形で友達と掛け合うものだった人も多いのではないでしょうか。暮らしの中で行われるコミュニケーションは、環境ひとつで大きく異なってくるのです。

 

自然な所作

日常の無意味さ

日々の暮らしというものは、すべての時間に何かしらのできごとが発生しているわけではありません。したがって、日常系と呼ばれる作品群においても、大きなイベントが起こらないなかでも日記には書けそうな出来事が取り上げられて描かれていることが多いです。 ところが、『のんのんびより』においては、 本当になんでもないような場面が描かれていることがありました。

1期の5話です。朝、制服に着替え終わった小鞠が夏海を起こしに部屋を訪れると、夏海は布団の上で、何をするでもなく、本当に何をするでもなく、おみくじのおもちゃで遊んでいたのです

物語の展開として、普通であれば、 起点となる出来事があるものです。 たとえば、部屋の片付けという状況が設定されている中で、押入れの奥からおみくじのおもちゃを発見したことで、 それに手を伸ばし、 そこからおみくじに関する話が繰り広げられるといったような展開です。

ところが、小鞠が部屋を訪ねてきたとき、夏海は布団の上に座って、ただじっとおみくじを眺めていました。物語が展開することを考えると、夏海がどこからかおみくじを見つけ出している素振りが見えてもよかったでしょう。あるいは、部屋に入ってきた小鞠に差し出すくらいのことがあってもよかったかもしれません。

しかし、パジャマのままで、ただおみくじを見つめている様子からは、そういった “展開のためのきっかけ” が見当たりません。説明すらもありません。考えられそうなのは、「駄菓子屋で買った」というそのおみくじのおもちゃを、夏海は目覚めてすぐ届くような場所に置いていて、起きてすぐ、何気なく手にとって夢中になっていた、といったあたりではないでしょうか。

そう考えると、この場面では生活の中にある所作があまりにも自然に表出しているように見えてきます。ふだん私たちは、物語の展開として面白くなるようなトリガーを暮らしのなかにセットしませんし、何気なくそこにあったものを手にとって、やることを忘れてじっと眺めてしまうようなことがあります。

人は、暮らしのなかで何かしらの意味ある行動を常に取っているわけではありません。無意味な時間というのが必ず発生しています。そして、それは大半が無意識に行っている所作としてあらわれます。そういった部分を、夏海がおみくじのおもちゃをじっと眺めているシーンに見出すのは、少し深く読みすぎでしょうか。

人間同士の気まずさ

引き続き夏海の話になります。

物怖じするような性格には見えない夏海でしたが、6話において、蛍と2人きりになると何を話していいかわからなくなってしまいました。気まずさを払拭しようと、あれこれ話しを振ってはみるものの、どこか、ぎこちなさが拭いきれません。そんな折、蛍の背中にヤモリが登っているのを見つけます。

夏海は、蛍が大騒ぎにならないようヤモリの存在を指摘することなく、どうにか取り除いてあげようと画策しました。しかし、夏海がうまく仕向けられないうちに自分で気がついた蛍は、むしろ爬虫類が好きだったので、結果的には問題がありませんでした。

いつも陽気に振舞っている夏海が、蛍と2人になると、蛍への気配りが少し過剰になってしまいました。夏海が意外と周囲へ気を使っているということがわかる場面です。そんな夏海とは裏腹に、蛍は夏海から振られた自分の好きなアニメの話に夢中だったりと、夏海が気を遣う必要などなかったかのように振舞います。

いつも一緒にいる仲であっても、ちょっとした気まずさを感じることがあるというのはありがちなことです。夏海は、よくれんげの相手をしているからなのか、聞き役としてのほうがうまく振舞うことができるのかもしれません。植物に黙って水やりをしているという状況では、意外と夏海が気を遣ってしまったようです

もっとも、蛍が好きな話でテンションがあがり、饒舌になってくれたことで、自然と会話は繋がりました。会話の流れから爬虫類を探しに行こうと蛍を誘う夏海は、いつもどおり、蛍の先輩らしい気さくな雰囲気を取り戻していました。

ちなみに、もし小鞠であれば、蛍を配慮するほどの余裕はなかったかもしれません。すぐ指摘するか、自分がビビって叫んでいたことでしょう。実際、校舎に戻った2人を待ち受けていたのは、ヤモリにびびって大暴れしていた小鞠でした。夏海と比べて、小鞠は他人より自分への興味が強いようです。

ローカル感

言葉選び

田舎のみならず、それぞれの共同体や族のなかでは、その地域でしか通用しない言葉が存在します。その筆頭が、物の呼び方です。

3話において、ホラージャンルのDVDを視聴した小鞠は、ひとりで寝るのが怖くなり、夏海の部屋に潜り込みます。 なつみが電気を消すと、小鞠は「 ”夕方” にして」と言いました。小鞠のいう「夕方」というのは、小さい豆電球のことでした。

テレビのリモコンを「ピッ」、ホチキスを「パッチン」呼んだり、電子レンジで温めることを「チン」と呼んだりするのは、各家庭にありがちなローカルルールです。誰にでも伝わるものではありません。そんな、さりげない生活の一部が、『のんのんびより』のなかにもきちんと描かれていました。

もっとも、夏海でさえ「夕方?」と聞き返していたぐらいなので、家庭内には浸透していなかったようですが、少なくとも小鞠は中学2年になった現在まで、この呼称を使っていたということにはなります。

また、小鞠が言いなおした「豆球」という呼び方さえ、人によっては通じないことがありそうですが、そういった特有の言葉遣いからは、それを使う人の暮らしを垣間見ることができます

実家らしさ

日常における具体的な振舞いは、ほかにもこのように描写されていました。

5話、早朝のラジオ体操を終えたあと、蛍は越谷家で一緒に朝食を取ることになりました。物腰柔らかく、穏やかで丁寧な振舞いを身につけている蛍は、夏海の母から褒められます。

越谷母「蛍ちゃんは夏海と違って、素直でいい子だねぇ」

すると、夏海は言い返します。

夏海「わざわざ引き合いに出さなくていいじゃん!」

夏海の言うことはもっともで、ここでわざわざ引き合いに出す必要性はまったくありません。しかし、自分の “ウチ” 側の人間を卑下することで、相対的に他者を褒めるというやりかたは、とても日本の家族文化的な振舞いではないでしょうか。それは時に「謙遜」ということばで表現されることがあります。

もっとも、夏海の指摘どおり、親が子どもを引き合いに出すことは決して謙遜とは呼べるものではないのですが、これらのセリフは、”実家の母が言いそうなフレーズ” として多くの人が共通認識を持っているのではないでしょうか。

余計な言葉の生活感

もうひとつ、家庭特有のローカルルールが垣間見えるシーンがあります。

10話、宮内家の長女・一穂と次女のひかげ、一穂の後輩で村の駄菓子屋・楓の3人は、初日の出を見ようと元旦の夜中に家を出ようとしています。と、れんげが起きてきてしまいました。一穂は、れんげに寝てるよう促しましたたが、「自分も行く」と言って聞かないため、しかたなく連れていくことにしました。れんげは急いで着替えてくると宣言しますが、一穂はそれに対して、着替えを持ってきて車の中で着替えるよう伝えます

「目覚めて興奮したれんげが、大急ぎで準備をする」という展開だけを描くのであれば、一穂が放ったセリフは余計なワンクッションとなりかねません。その後の「すぐ着替えてくるん!」というれんげのセリフでカットを終えてしまえばいいでしょう。ところが、そこで一穂が「時間ないし、車の中で着替えちゃいな」と返したことで、一気に生活感が強まります。

人間の生活は物語ではありません。少し余計なやり取りが発生しているものです。そういった余剰さえ描いてしまうことで、むしろ彼女たちのコミュニケーションがより活き活きとした生活感を見せてくれるのです。

「遊びにきたよー!」から見える 遊び

家にあがること

8話。母からの命令で干し柿を作らされている夏海と小鞠。そこに突然、隣に住む富士宮このみがやってきました。越谷家の敷居に勝手に上がりこんだかと思えば、問答無用で「遊びにきたよー!」と宣言します。突然の来客を出迎えた夏海は、微塵の動揺も見せないばかりか、継ぎ目なく、干し柿づくりを手伝うよう要求します

こう書くと、互いに図々しい同士の人間関係に思えてくるこのシーンですが、この少し前時代の日本的なコミュニケーションは、もしかしたらいまでも、田舎では営まれているのかもしれないと思わされます。

干し柿づくりは家事です。家事であれば、その家の人間がやるか、専門の家政婦が行うのが一般的です。しかしこれも、ひとむかし前の日本や、あるいは今でも近所との結びつきが強い田舎地域では、お互いさまで協力して取り組んでしまうことがあります

近所という概念は、都心部のそれとは異なり、ひとつの共同体として常にゆるく結びついているもので、それはそのまま、まるで親子や兄妹であるかのように、連携をとることで生活を営んでいきます。自分だけで行うには面白くない作業でも、寄り合って、駄弁りながら取り組んでしまうことで、遊びとしてしまうのです

手作りの文化祭

このように、遊ぶための環境が整備されていない場合、暮らしがそのまま遊びとなることがあります。もちろん、他にも川遊びや山遊びなどがありますが、ゲーム性という意味では、参加者がそれぞれ積極的にならない限り、どんな営みも遊びとはなりえません

そのことを踏まえると、家事であっても川遊びであっても、その環境で何をどうしていくかということを自分たちで遊びに変換していく必要があります。秘密基地を作るというのだって、山や森などの環境だけがあって、そこで何をどうしたら楽しくなるかというところから発想されたものでしょう。

それでいうと、旭丘分校でおこなわれた文化祭は高度な「遊び」です。夏海が突然やりたいと言いだした文化祭は、その週末に開催するということになり、彼女たちは急いで準備を進めていきます。

文化祭は、あらゆる学校で年に一度のお祭りとして楽しむ人が多いでしょう。たとえ、生徒数の多い学校と同じ規模でなくとも、夏海たちは全員が手の届く範囲のものを準備していきます。材料や道具を調達する場所もないなかで、生活圏からかき集めた材料をつかって各々が思うように文化祭を作り上げていきます。

田舎ぐらしという環境は、一見すると、文化のひとつもないように感じてしまいます。しかし、彼女たちにとっては、近所の人たちと協力して家事を行っていくことや、身近にあるもので何かを作り上げていくことは、暮らしそのものでありながら、自分たちでゲームを決め、自分たちでプレイしていくという「遊び」にもなっているのです。

都市圏に置かれている商業的な文化だけではなく、暮らしのなかで、みんなと寄り合って取り組むちょっとした営みもまた、文化と呼べるのではないでしょうか

まとめ

『のんのんびより』という作品では、日常の “何も起こらなかった側” の描写が丁寧に描かれていました。それは、人々が暮らしていくなかで意識せずとってしまう振舞いや言動の中から見出すことができるため、れんげたち本人さえ気がついていない所作なのかもしれません。

まるで、モニタリング用のカメラを設置し、誰の意識もカメラに向かっていない多くの瞬間を切り取ったかのようにして描かれたれんげたちの生活は、むしろ人々の暮らしが実際にはどのようにして営まれているのかということを再確認させてくれます

小さいころは自覚できていなかった自分たちの暮らしの空気感、たしかに見聞きしていたことや経験していたことを、改めてアニメーションとして視聴することで、日常がいかに細かい所作の連続であったかということに気付かされる、そんな作品が『のんのんびより』なのです。


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2013年に1期が放送され、2015年には「りぴーと」と銘打った2期、そして2018年には劇場版と、コンスタントに最新作が放映されてきた人気アニメ『のんのんびより』。田舎暮らしの子どものたちの日々を描いたこの作品は、田舎という舞台において人々が暮らしていく際のふるまいや所作を、丁寧に、そして徹底的に描いていることが魅力です。その細やかな気配りは、登場人物たちが実生活で振舞う何気ない所作や、彼女たちが交わす言葉から見出すことができます。彼女たちが住んでいる村(※1)において、その中にいる人同士での会話にのみ通じる意思疎通の方法があるのは、生活している以上、あたりまえのことなのです。したがって、たとえ視聴者が知らないであろう言葉だったとしても、彼女たちにとってはわかりあえる言動であり、それをわざわざ説明するということはありません。この作品は、彼女たちの生活をそっと覗くような視点で作られているのです。彼女たちが当然のようにして振舞う説明不要のコミュニケーションが、ときに、ほんの一瞬だけ垣間見えることで、彼女たちが、”いまこの瞬間” を暮らしていっていることの鮮烈さを感じ取ることができるのです。_(※1)作中に登場する土地が「村」であるか「町」であるかは明記されていませんが、人口が少なく自然が生い茂っているという環境から本連載では一律に「村」と記します。_[anichantopic id=160][anichantopic id=193]









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