【のんのんびより】やっぱりここは、いなかなんな - その④

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目次


始まりと終わり

「やっぱりここは、いなかなんな」  

『のんのんびより』は、1話の冒頭、れんげが「もしかして、ウチはいなかに住んでるのん?」と疑念を抱くところから始まりました。自分が暮らしている村について少しずつ理解しかけていたれんげは、どこで知ったのか、どうやらここは田舎っぽいぞということに気がついたのです。

しかし、夏海からの「田舎ではない」という回答に、れんげは納得しました。夏海が理由として挙げた「別に不便じゃない」という言葉は、夏海本人でさえ疑わしそうでしたが、れんげは一旦、ここが田舎ではないという夏海の結論を聞き入れ、「ここは田舎じゃないんな。なんとなくスッキリ」と口にしています。

ところが、1期の最終回、12話を見てみましょう。

れんげたちは山菜採りに行きました。ひとりで草葉を漁っていた卓は、夏海から教わった酸っぱい味のする野草を噛んでいました。夏海が去ったあと、今度はそこにれんげがふらふらとやってきました。れんげは、草をくわえて吸っている卓をみて、固まります。しばらく呆然としたあと、れんげは夏海の元へかけつけ、「あれはさすがにやりすぎなん!あんなの平成時代じゃないん!」と叫びます。

ちょうど合流した蛍が、れんげの様子を見て「どうしたの?」と問いかけると、れんげは少し思いつめたようにこう言いました。

「ほたるん。やっぱりここは田舎なんな。都会には、山も砂も山菜もないのに、ここにはいっぱいあるのん」

れんげは、「田舎ではない」という夏海の意見を受け入れてはいたものの、それから1年間、学校に入ってみんなと一緒に色々な遊びを覚えていくなかで、たくさんの発見をしました。そしてその経験から、ここが田舎ではないかという疑念が再浮上していたようです

れんげの言葉に、蛍は穏やかな口調で返します。

「都会と違うところがいっぱいあって、山も砂も山菜もあって、わたしここが大好きだよ」

1年前に疑問をぶつけた相手は夏海でした。東京から転校してきた蛍が、学年の違う生徒が同じ教室にいたり、たぬきがいたりと初めての体験に驚いている様子を見て、れんげは戸惑い、夏海へ問うたのでした。

しかし、今回は蛍に尋ねました。東京からやって来た蛍が1年間過ごしてみて、そのうえでここが田舎なのかどうかの判断を委ねているかのようです。ところが、蛍は田舎かどうかという2択ではなく、「ここが大好き」という言葉で、れんげの疑念を肯定しました。

「もしかして、ウチは田舎に住んでるのん?」という疑問と、「田舎じゃない」という仮の結論で始まった『のんのんびより』。その疑念は、1期の12話を通して、れんげの頭に渦巻いていたようです。ですが、今度は東京という外の世界から来た蛍によって、村そのものが肯定されました。

「田舎なのん」と尋ねるときのれんげはいつもどこか不安げです。その理由はれんげの口から語られることはありませんでしたが、1話で夏海から「田舎じゃない」と言ってもらえたときも、12話で蛍から肯定されたときも、安堵の表情を浮かべていました。れんげは、自分の暮らしているこの土地が田舎であることをよく思っていなかったのでしょうか。

最終話で蛍がかけた言葉は、この土地が田舎ではないというものではありませんでした。しかし、ここが田舎であっても、都会にはないものがいっぱいあって、大好きだという蛍の言葉は、れんげを安心させるには十分なものでした

花見に始まり、花見に終わる

同じく1期の1話。転校してきたばかりの蛍は、まだ緊張しているような描写がみられます。夏海たちとの会話ではたどたどしい様子です。

東京に住んでいた蛍にとって、夏海たちが暮らすこの村は未知の世界です。給食にでてきた “ツクシ” や “山ウド” を凝視してみたり、牛が横断するという標識に驚いたり、辺りいちめん生い茂った景色に、「お店ってないんですか?」と尋ねたりと、驚きの連続でした。とにかく慣れない環境で、その挙動からはどこかソワソワとした印象がうかがえます

そんな折、れんげたちはお昼休みに蛍を誘って学校裏の山に登ります。そこで桜を見るのが恒例だそうです。

高台に登ってみると、幹の太い、大きな桜の木が立っていました。満開の桜は、蛍の目を奪います。桜吹雪の中、しばらく見惚れる蛍。少しして振り返ってみると、そこには広々とした眺めが写りました。東京からは想像もできないくらいに何もなく、人もいない場所ですが、こうしてじっくり見てみると、なんと広大なことでしょう。

立ちつくしていた蛍は、間をおいて、伸びをしました。これはただの伸びではありません。右も左もわからない土地に大都会から引っ越してきた蛍は、ここではじめて緊張をほぐすことができたのです。新しい環境の空気を吸って、硬直した体から吐き出す。それはまるで入村の儀式であるかのように、蛍をこの地になじませてくれます。やわらかく笑った蛍は、みんなと一緒に桜を楽しみました。

そして、お花見から1年。1期の最終話です。「桜が咲いたらお花見やろう!」という小鞠のセリフがありました。桜とともに始まった蛍の田舎暮らしは、次の春、また桜とともに繰り返していきます

くわえて、同じ時間軸を描いた2期の最終話では、実際にそのお花見が行われました。蛍たち4人だけではなく、高校生組のひかげやこのみ、大人の一穂や駄菓子屋の楓まで、勢揃いです。知らない場所で過ごした1年間で、蛍はこの村に完全に溶け込みました。そして、また新しい1年間がはじまるのです。

以上のように、『のんのんびより』は始まった1年の節目をきちんと描いて終わらせることで、暮らしというものが続いていくことを表現していたのです。

個性の発露

個性というのは、本人が意識していなさそうな部分に出てしまうものです。そのため、こういった何気ない動作に、彼女たちの性格上の設定がとてもよく描かれています。

雨のはじきかた

ある日、急な雨に振られた夏海たちは、駄菓子屋に逃げ込みます。このとき、びしょ濡れになった全身の水のはけ方を見ると、その動作に個性があらわれていました。

夏海は頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、飛び跳ねるようにして全身の大雑把に水を吹き飛ばしています。

小鞠は、服や髪といった見栄えに関係する部分を、整えるようにしてつまんだりしぼったりしました。

蛍も同様に、見栄えに関する部分を、いかにも大人のような丁寧な振る舞いで、腕や髪の毛についた水気を手のひらで優しく撫でるようにして水気を弾こうとしていました。

そしてれんげはというと、まるで小動物かのように頭を揺らし、髪の毛や顔を叩き水気を弾き飛ばすようにしていました。

どの動作も、それが彼女たちひとりひとりの性格からとても想像しやすいものとなっていました。

掃除好きと掃除嫌い

プール清掃をした回を見てみましょう。

汚れている箇所を見つけると、小鞠は手に持った洗剤を吹きかけて拭き取りました。その洗剤は、どうやら結構汚れを落としてくれるようで、キレイになった壁面を見て、小鞠はうれしそうです

夏海はよく、部屋の片付けをしないことで怒られていますが、小鞠はそれを、いつも呆れた様子で見ています。小鞠には、部屋の掃除に関して指摘される場面が描かれておらず、プール清掃もどこか楽しそうにやっています。このことから、小鞠は掃除や片づけが得意であるということがうかがえます

対して、部屋片付けをサボりがちな夏海は、空になったプールの中で駆け回って遊んでいました

登場しない宮内家

宮内家の両親は、農作業をしています。しかし、越谷家の母とは違い、作中に一切登場しません。忙しい両親に代わって、家のこと、とくに幼いれんげの面倒は、一穂が見ている場面が多く見受けられます。

大晦日のこと。宮内家は全員が自宅にいます。この日くらいは全員が登場してもいいはずなのですが、ここでも両親は姿を表しません。ただし、しっかりと違和感のないような演出が施されていました

家にいるのは、3姉妹と両親。ひかげが、3人分の蕎麦を運んでくると、一穂とれんげに向かって「おせち作ってるから先に年越しそば食べちゃいなってさ」と言いました。

あたりまえのように存在するはずの両親を登場させないまま、その存在感だけを示すために、これほどさりげないセリフがあるでしょうか。「おせち作ってるから」という理由で両親を忙しくさせ、「先に年越しそば食べちゃいな」という言葉で3姉妹との距離を開けたままにする。

あくまでも、両親は本編に関わってこないということを徹底するために、非常によくできたセリフでした。

蛍と小鞠の年齢差

蛍の家にみんなが遊びに来たとき、れんげはおままごとをやりたいと言いました。蛍は即座に「いいよ」と答えましたが、小鞠はなんと「子供っぽい」と不平を垂らします。

おままごとをやりたいのはれんげで、まだ幼いですから、自分が主体となって遊びたいと考えることは何もおかしくありません。それが子どもです。このときのメインプレイヤーは紛れもなくれんげなのです。だから蛍は、れんげの遊びたいことに付き合うことを表明したのです。

ところが小鞠はそのことがわかっていなのか、あろうことか、幼いれんげに「子どもっぽい」と伝えています。小鞠はまだまだ自分がメインプレイヤーでありたいのでしょうか。あるいは、自分が大人っぽくなれる遊びを優先したかったのでしょうか。

いずれにせよ、自身がまだ子どもであることを自覚しながらも、自分より幼いれんげの遊びに付き合おうとする蛍と、自分が大人っぽくいることを優先的に考えてしまった小鞠の振舞いは、まるで年齢が逆であるかのようなものになってしまいました。

蛍はよく周りが見えている子で、あるとき、一緒に星を眺めていた小鞠が「あそこの星を結ぶとラーメン座!」と口にすると、蛍は「じゃあ向こうのを結ぶとソーメン座ですね!」と、なんとも機転が利く返しをしています

このように、蛍と小鞠の子どもらしさと大人らしさの設定は、幾度も細やかに描かれていました。 

演出の強さ

セミとほのかちん

1期4話の後半。『のんのんびより』ファンであれば、名シーンとして挙げるであろう、れんげとほのかとのお話です。

やかましいセミの音は、その日の暑さを感じさせます。音を立てることなくわずかに揺れる風鈴は、風が弱いことを示していました。まわしっぱなしの扇風機と、飲みかけの麦茶のコップにまみれる水滴。そして、濃い青の空と、膨らんだ雲。

夏休みが持つ幻想的な印象を際立たせるような演出が施されているのは、これから始まるのが、まさに真夏の幻想のような物語だからです。

縁側でひとりあおむけになっていたれんげは、おもむろに立ち上がると外へ出ていきます。何があるわけでもない田舎道で、何気なく木の実を摘み取り、口へ運びました。草木の生い茂った場所を抜けると、伸びをして振り上げた腕をそのまま後ろ手に組み直し、あたりを見回します。

ねこじゃらしを見つけると、所在の無さからか、ひとつ手に取るとそれを凝視し即興でねこじゃらしの歌を口ずさみつつ、目的もなく歩を進めていきます。

目的が特にない日常において、れんげがどのように行動するのかを自然に見届けているような気持ちになれるこのシーンは、これだけでも、すでにとても丁寧に描かれていますが、重要なのはここからです。

話の流れを要約すると、こうなります。

  • 夏休みに家族とともに祖父母の家に訪れたほのかはれんげと出会い、仲良くなります。
  • ほのかが帰ってしまうまでにはまだ数日間あり、2人は連日遊んでいました。
  • ある日、いつものようにれんげがほのかと遊ぼうと、ほのかの祖父母家に訪ねます。
  • すると、ほのかの父の都合で、急遽、帰ってしまったことが告げられます。
  • ほのかが急にいなくなってしまったことにれんげは落ち込みます。
  • 数日後、ほのかからお手紙が届き、来年もまた帰省すると書かれていました。
  • れんげはすぐさまお返事を書くことにしました

ちょっぴり切なく、胸がきゅんとするようなお話です。「夏の思い出」としてふさわしい展開ではないでしょうか。

さて、もっとも重要な、表現について見ていきたいと思います。

ふらついていたれんげは、橋の上に、カメラを構えている少女を見かけます。気にはなったものの、自ら声をかけようとはしません。すると、気配に気付いた少女が、れんげを見つけました。れんげは驚きますが、少女は微笑みをくれました。意外なのが、誰にでも臆せず接することができそうなれんげでも、初めて見る同い年ぐらいの子だったせいなのか、警戒心があったようです。

「ほのか」と名乗るその少女がカメラを持っていたことから、地元を案内できると得意になったれんげは、水車のある場所までほのかを連れて行きます。初めて水車を見た感動をしたほのかは写真に収めます丸すると今度は、個も花が蓮華にカメラを貸し与えます。初めて触るカメラに興奮したれんげは、パシャパシャと水車を取って行きます。

まだまだ遊び足りないれんげでしたが、ほのかはお昼までに帰らないといけませんでした。ほのかを、彼女の祖父母宅まで送ると、明日また遊ぶ約束を交わしました。 

地元には友達と呼べる存在がお姉さんたちしかいなかったれんげにとって、同い年のほのかはとても貴重で、ほのかと遊んだ帰り道のれんげは意気揚々と歩いていました。

その夜、帰省中だったひかげから「明日さ、バスで買い物とか行かね?」と誘われたれんげ。山や川のほかに遊ぶ場所がないれんげたちにとっては貴重なイベントです。しかし、れんげはそれを断ります。

普段なら、おそらくは出かけてたことでしょう。ただ「忙しいのん」とだけ返しました。本来、れんげが忙しいことなどほぼありません。れんげの周りにいる人は限られているし、小学1年生のれんげにやることなどほとんどあるように思えません。ところが、明日はほのかと遊ぶという予定が入っているのです。れんげにとっては滅多にない予定なのです。

それから、れんげとほのかは、朝から日が暮れるまで遊び尽くします。ひまわり畑を駆け抜け、川へ行き、猫と戯れ、たぬきを呼び寄せ、雨に打たれ、でこぼこ路をゆく。場面の転換から察するに、それはたったの2日間ほどにすぎませんでしたが、小学1年生の2人にとっては非常に濃密な時間だったことでしょう

そうして2人は出会った橋のうえで、「また明日ね!」「明日はちっさい滝があるところにいくのん!」と言葉を交わし、別れていきました。

あくる朝、早起きをして朝ごはんもほどほどに、れんげは勢いよく家を飛び出します。今日もほのかと遊びます。目が覚めた瞬間には出かける準備を始めるほどですから、れんげにとって、どれだけ居てもたってもいられないことかがうかがえます

しかし、これまでと比べて妙に静かな演出です。ほのかと遊んでいたころに流れていた穏やかでゆったりとしたBGMは消え去り、聞こえてくるのは田舎特有の環境音と、喧しいセミの大合唱だけです。それは、この地がどれだけ外の世界から隔離されているかを実感するには十分すぎるくらい、この場所の広大な自然を想起させ、ひいては、「ここからは出られないこと」そのものが、小さいれんげの姿と対照的に映ることで、れんげの無力さが浮き彫りにさせられているようでした

ほのかの家の呼び鈴を鳴らすと、音沙汰がありません。ほのかの祖母が出てくるまでのほんの数秒の間が、その日が来たことを予感させます。画面の外では、セミの音が少し弱くなる代わりに、切なさを含んだピアノの音がやさしく添えられます。

ほのかたち一家が、ほのかの父の都合によって急遽帰ってしまったことが、ほのかの祖母の口から告げられても、れんげは微動だにしません。普段からぼーーーっとしているように見えるれんげは、いまのところいつも通りにしか思えず、頭の中で事態をどのように処理しているかは検討もつきません。ただ、悲しげなBGMが、れんげの感情を推測させるのみです。ほのかの祖母が玄関を閉めると、ほのかの祖母の家の前で、れんげはひとり立ち尽くします。祖母の顔を見上げるように傾けていた頭を、力なく正面に戻すと、映像はれんげの顔の正面へ

口をわずかに開けたまま、画面の8割近くを埋め尽くすほどアップのれんげの顔からは、一切の感情がうかがえません。寂しさをまとうBGMと、ほんの数ミリずつズームがかかっていくれんげの顔だけが映し出されています。

まばたきを、パチリとひとつ。それがなければ、映像が止まってしまったかとさえ疑ってしまうほど、画面からは動きという動きが排除され、ただひたすら、無表情のれんげがどこを見るでもないままこちらを向いています

時間にして約32秒。れんげが2度目のまばたきをするのに合わせ、ピアノのBGMは消え、忘れていたかのように、やかましかったセミの声が一斉に聞こえてきました。静寂を切り裂く音響は、我を失っていたれんげに正気が戻ったことを認識させます

と、れんげの表情はゆがみ、堪え切れなくなった涙が目元から滲み出してきました。小さく鳴らした喉の音は、喧騒に満ちたこの場所で、誰にも聞かれることもないまま、ひたすらに小さく、れんげの内側から漏れ出ていました

振り返り、ほのかの祖母宅から立ち去ろうと歩み出すれんげ。ただでさえ小さな背中は頼りなくうなだれていました。そのまま、れんげは重い足取りで帰っていきました。

このシーンにおいて特筆すべきは、32秒間、れんげの顔をただ映していたということです。先述した、捕まえた蟹を川へ返す話であったように、れんげはものごとを時間をかけてしっかりと咀嚼し、受け入れていく賢さがあります。そのれんげが、せっかく仲良くなったほのかと、ちゃんとしたお別れの言葉も交わすことなく会えなくなってしまったことを受け入れるために、れんげには少しの時間が必要だったのです。

もちろん、れんげ自身がそう語っているわけではありませんし、たとえれんげに尋ねたところで、小学1年生のれんげには、内面の話をうまく言葉にする言葉は難しいしょう。ですからこれは、大人が見たときに、「子ども」としてのれんげが、目の前のできごとをいままさに咀嚼し、受け入れようとしている瞬間を映像として描いているのです

れんげが呆然としていたのが、れんげたちの世界での32秒間だったかはわかりません。ただ、少なくとも、30分アニメの枠のなかで貴重な32秒間を、れんげが悲しいできごとを受け入れるために、時間の感覚をなくすほどに処理しきれなくなっていたことを表現するために使ったのです

受け入れるために、追いつかない頭をフル回転させていたのでしょう。微動だにしなかったのはそのためです。また、周囲のセミの声を一度消失させたのは、音が聞こえなくなるほどの衝撃があったという演出として解釈できます。そして、セミの泣き声をふたたび流すことで、れんげが我に帰ったことを描写していました。

基本的に、アニメは動くものです。登場人物をいかに動かせば、そこにどんな意味を持たせることができるのかという世界です。このシーンでは、あえて “静と動” でいうところの静を全面に描写し、その余白から、れんげの内面の動きを読み取らせるという、大胆な表現が行われていたのです。

ほのかが去ってしまってから一週間、あいかわらずれんげは縁側に寝そべってボンヤリしています。それは今までどおりのれんげにも見えますが、姉の一穂は「まだいじけてるん?」と問いかけます。いじけてないと返すれんげは、どこか不満そうです。

しかし一穂から、ほのかの手紙を預かっていること、そして、来年もまた訪れることが聞かされると、れんげは途端に大興奮です。封の中から、2人で撮った写真を取り上げると、れんげはそれをじっと見つめます。相変わらず、表情を動かしません。何を思っているのでしょうか。ただ、一穂をとっつかまえ、手紙を送り返すこと、写真の代わりに絵を描いて添付することを宣言するれんげは、1年先が待ち遠しいことでしょう。

縁側と固定カメラ

「りぴーと」の最終回、12話の後半を見ていきます。

越谷家の縁側に腰掛けたれんげたち4人を正面から捉えたアングルです。彼女たちから10メートルほど離れた位置から、家の景観や庭込みで画面が構成されています。

会話劇の多いこの作品では、基本的には今話したり動いている人間にフォーカスが当てられていました。ところが、ここでは誰が喋っても、縁側を中心とした固定カメラのままでした。むしろ、全体を俯瞰することで、4人の会話がメインではなく、全体の風景込みの “人々の、日常的な暮らしの断片”といった情景になっているのです

会話もほどほどに、小鞠と蛍がお茶を取りに行くと、画面には、れんげと夏海の2人が残ります。少しして、今度は夏海とれんげが、飛んできた蝶を追いかけ、画面の手前に向かって走ってきて、そのまま画面外へとフェードアウトしていきました

画面右手から、縁側を歩いて兄・卓がやってきて、れんげたちの方をだまって見つめています。もともとセリフのないキャラクターですから、何をしにきたのかもわかりませんが、縁側に少し立ち止まって、また去っていきました。と、卓が歩くその足元に、猫が横になっていました。見事な視線誘導です

蛍と小鞠が飲み物を持って戻ってくると、れんげと夏海が縁側からいなくなっています。他人に用事を頼んだくせにと不平を垂らすも、画面外の夏海たちに向かって「持ってきたよー」と声をかけます。

「お茶ならあとで飲むー」という夏海の声が遠くから聞こえると、小鞠は画面外に向かって「ジュース」と叫びます。すぐさま、れんげと夏海は画面外から中心の縁側まで駆け戻って来ました

基本的に、カメラが何かを追っている場合、そのカットの中での主役と脇役がわかれ、そこに主従関係が発生します。それは必ずしも人物ではなく、ときには景色を主役に置いて、それを眺めている人物を脇役とすることもあります。

ところが、ここでは中心にいる4人を一旦は話の主役とした状態でシーンを開始したものの、あえてカメラを動かさないことで、田舎の縁側とを中心に捉え、それを遠くから全体の景観込で映すことで、彼女たちの主役としての役割を薄めていました

それぞれが好き好きにフレームアウト・インをすることで、都度、シーンの主役が入れ替わっていきます。小鞠たちがお茶を取りに行っている間は夏海とれんげに意識が傾き、夏海たちが画面から消えれば、誰もいなくなった縁側への意識は景観全体へと散らばり、縁側そのものを漠然と眺めるほかなくなります。夏海とれんげについては、その会話だけが聞こえてきて、その声は縁側を彩る背景と化します。

上手(かみて)から卓が登場すると、その足元に猫がいます。猫の存在は「まったりとした時間」を想起させるための装置として機能していました。卓が縁側の中心までやってきて、視線を正面付近にやるものの、いつもどおり、何を喋るでもありません。ただ、その動作が夏海たちに何か用があったのかもしれないとにおわせるのみです。そして、彼が少ししたらすぐに去ってしまうことで、それが「たいした用ではない」ことを示唆しています。

これは、「日常」というものの断片を、とても忠実に描写した表現です。

こういった田舎のゆったりとした時間感覚は、本来はリアルタイムで生活してみないと実感のしようがありません。当然、アニメには放送時間の縛りがありますから、ほとんどの表現は圧縮されて描かれています。ところが、この縁側のシーンに関してだけは、固定カメラから彼女たちを捉えることで、彼女たちが感じているのとほぼ同じような時間の流れを体感できるように描かれていました。

縁側に誰もいない時間を十分に取り、誰も人物を映さないことで、全体の印象がぼんやりとしています。このぼんやりとした時間こそが、漠然としていて捉えようがなく、必ずしも何が起きているでもない「日常」そのものなのではないでしょうか

まとめ

『のんのんびより』という作品が、「田舎ぐらし」というものをいかに緻密に描いているかということを、4回に分けて語ってきました。その最後にあたる今回で記したように、日常というものは、究極的にはリアルタイムに感じている時間の流れそのものなのです

1話あたり24分という限られた時間を最大限ゆったりと使い切り、視聴者である私たちがいつも体感しているのとなるべく同じ時間感覚で、れんげたちの暮らしを覗かせてくれました。そんな本作は、「日常系」と呼ばれる作品群のなかでも少し次元の高いところに君臨しているのではないかと思わされます。

目の前のなにかに心を動かされたとき、1秒は1秒でなくなります。それは、れんげと同じくらいの年頃のときには誰しもが体感してきたことではないでしょうか。

「あの頃」の感覚を思い出しながら、もうれんげと同じ気持ちではいられなくなった大人からの視点であらためて、「あの頃」を俯瞰して見つめる。そんな体験ができるのが『のんのんびより』という作品なのです。


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